シャネル(Gabrielle Chanel, 1883年8月19日~1971年1月10日)

ココ・シャネル(本名:ガブリエル・シャネル)は、1883年8月に、オーヴェルニュという町で
生まれました。

その家庭環境には恵まれておらず、父は旅回りをする商人で、しょっちゅう家を空けており、
また母は病弱で、ガブリエルが12歳になる直前に、結核で他界しました。

また、父は根っからの浮気性で、流れ着く町々で新しい女を作るといった状態。
それでもガブリエルは、滅多に会えない父に愛着を持ち、父が帰ってくる日をいつも心待ちに
していました。

そんな彼女も、母を失い、父は引き続き旅を続けなければならなかった状況で、彼女の姉と共に、
孤児院に預けられてしまったのです。

ガブリエルは、このような両親のもとで、愛情に満ち溢れた生活を送ったこともないまま孤児院に
入れられ、そこでも惨めな思いをしたといいます。

元来ガブリエルは、プライドが高く、挫折をバネにして這い上がる強さを持っていました。

ですから、貧乏で誰からも愛情を受けられなかった彼女は、次第に
「将来は富を築いてやる。自分の足で立ち、二度と惨めな思いをしないような生活をしてやる」
と強く自分に言い聞かせるようになりました。

そんなガブリエルは、孤児院から寄宿学校に入り、そこで裁縫の技術を身に付けたことで、
学校後はランジェリーショップの売り子となりました。

この時に、彼女の自立した生き方が、本格的に姿を現すようになります。

華麗なる人々との出会い

ガブリエルは、昼間は下着ショップで働き、夜はキャバレーで歌を披露する仕事をしていました。

キャバレーに来る男性客を相手に歌っているわけですが、ガブリエルは男性を誘惑する能力に長け、
やがて次から次へと贈り物を受け取るようになります。

ガブリエルが「ココ」という愛称で呼ばれるようになったのは、ここでのことだったようです。

ココにとっての最初の大きな出会いは、エディエンヌ・バルサンという資産家の男性との出会い。
バルサンは、ココをロワイヤルデューにある別宅に招き、そこで彼女を愛人としました。

またそれだけではなく、バルサンには多くの女性たちがいて、ロワイヤルデューは、そういった
女性たちと上等な馬で溢れていました。

そこにいるクルティザン(高級娼婦の意味)やミストレスといった女性たちは、階級の秩序に
縛られることなく自由を謳歌し、また常に最先端のスタイルで人々を魅了するような人たちでした。

ココはそこで大きな刺激を受け、ロワイヤルデューでのひと時を楽しむようになりました。

その後、イギリス人実業家、アーサー・カペルと出会い、関係を持ったことで、更にココ自身にも
磨きがかかり、やがてバルサンとカペルの協力を得て、自らの帽子ブランドを立ち上げたのです。

そこでは大成功を収め、更に自分の裁縫技術で洋服も作るようになり、ファッション業界の道を
駆け上がります。

ファッション業界での成功

帽子屋から始まったココ・シャネルのキャリアは、洋服をデザインするようになっても、その勢いが
留まることはありませんでした。

何と言っても、シャネルには、他の人にはない斬新で、女性の体を締め付けない独自のスタイルが
ありました。

それまでの女性は、きついコルセットでウエストを縛りつけ、尻つぼみで履き心地の悪いスカートで、
非常に動きづらいスタイルに縛られていました。

しかし、シャネルは実用性を重視し、ジャージー素材などの動きやすく軽い素材をいち早く
取り入れたのです。

現在でも、シャネルが現代ファッションを築いた一人として名高いのは、その新しいファッションへの
価値観があってのことです。

シャネルのデザインは、機能性、実用性と女性らしさを見事に融合させたものでした。

そして当時の女性たちは、彼女の作る洋服がどんなに高くても、支持し続けたのです。

勿論、全てが順風満帆ではなく、時には大きな問題も抱えました。

完璧主義で厳しいシャネルの元で働く労働者たちがストライキを起こしたこともありましたし、
第二次大戦当時には、ナチスの将校と愛人関係にあったことから、後にスイスに亡命して
ファッション業界から姿を消したこともありました。

しかし、亡命生活を終えて帰国したシャネルは、業界復帰を果たし、伝説となる「シャネル・スーツ」
などを発表し、第一線での活躍を続けていくことになったのです。

生涯現役

ココ・シャネルは、生涯現役を通しました。

また、その中で残した業績は、洋服だけには留まらず、ファッションに纏わるありとあらゆることに
見受けられます。

香水「No.5」は伝説的な香水となり、また芸術家や貴族からの贈り物の宝石をモチーフにした
アクセサリーデザインなど、どの分野においても、一流の仕事を成し遂げました。

あまりに新しいシャネルのスタイルがフランスで受け入れられない時期もあったのですが、
その分アメリカで受け入れられたことがきっかけで、アメリカ人知識人との交流も盛んに行い、
自分を高め続けました。

極貧状態で孤独だった幼い頃の思い出に生涯縛られ、彼女は地位のある人々に認められること、
お金持ちであること、そして多くの男に囲まれることにこだわりました。

しかし、そういった自分の弱さを強さに変えて時代を生き抜き、ウーマン・リブ(女性解放運動)より
前の時代から、自立した生き方を貫いていました。

自分が着たいものをデザインし、自分の目で男を選び、自分で自分の人生を100%管理したのです。

シャネルの言葉は、どの本を読んでも非常に厳しく、その微塵も揺るがない確たる精神を感じますが、
その厳しい世の中に対する視点から、女性を解放する手段の一つとして、心地よく動きやすい洋服
というものを世に送り出しました。

こうして、誰にも「No」と言わせない黄金ブランド「CHANEL」を築き上げたのです。

芸術家を愛したココ

ココ・シャネルのインスピレーションの元となったのは、紛れもなく芸術家や上流階級の人々との
交流です。

孤児であり、極貧状態を経験したシャネルは、ファッションを通じて人生を切り開き、そして多くの
人々に出会える権利をものにしました。

また、シャネル自身が知的な会話が得意であったこと、そして、男性の心を射止める術を身に付けて
いたことから、彼らのうちの何人かはココの愛人にもなりました。

その交友範囲は、歌手や女優、詩人、作曲家、彫刻家、作家など、実に幅広いものです。

彼女と意気投合した人々の中には、画家のルノワールやピカソ、作家のジャン・コクトーなどが
いました。

更に、ロシアのバレエ団に魅力を感じたシャネルは、バレエ団の人々との交流からロシアン・ルックの
インスピレーションを得て、それを自分のデザインに反映させ、ロシアン・ルックを流行させることにも
成功しました。

シャネルの恋人となったのは、作曲家のストラヴィンスキー、ロシアのディミトリー大公、
詩人のルヴェルディなどです。

しかし、シャネルはただ社交目的で彼らとの付き合いを望んだわけではありません。

常に知性が自分を磨くこと、更に、彼らが次なるスタイルを作るヒントを沢山持っていることに
気づいていたからです。

知性を磨き、実用主義に徹した洋服を作ることが人生の全てであった彼女ならではの交友関係、
といえるでしょう。

カール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld, 1933年9月10日~)

現在のシャネルのデザイナーが、ドイツ出身のカール・ラガーフェルドです。

カールは、自分に神秘性を持たせることを好むので、滅多に人前で自分の姿をさらけ出しません。

いつもサングラスをかけていて、常に自分のイメージを厳しくコントロールしています。

さて、カールは、シャネルとは共通した部分を持ちつつも、実に多くのことを一度にやってのける
という技も持ち合わせていて、今まで数多くのブランドと組み、コラボ企画を行ったり、
シャネルとは全く違うブランドのデザイナーも兼任したりします。

バルマンやサン=ローランのもとで修行を積んだ後に独立してから、彼は自分のアイデアを
形にするために、ありとあらゆる手段を使いました。

彼が組んだブランドは、シャネルに留まらず、イタリアのフェンディ、日本の伊勢丹、デニムで
お馴染みのディーゼル、更に、安価の衣料品ショップH&Mなどなど。

現在では、シャネルと自らのブランド「カール・ラガーフェルド」のデザイナーであり、同時に
フォトグラファーでもあります。

カールは、シャネルの広告写真を、いつも自分で撮っているのです。

しかも、その質は常に高く、毎シーズンカールの広告を楽しみにしている人も多いくらいです。

カールは、シャネルではシャネルとして実現できることをやりつつ、常に自分の感性を再現できる
場所を捜し求め、そして形にし続けています。

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